石川九楊が「書」について書いている本を何冊か買った。
「書と文字は面白い」「書字ノススメ」この2冊は新潮文庫、「書とはどういう芸術か」中公新書、「書に通ず」新潮選書。「二重言語国家・日本」もほしかったのだが、こちらは書店に在庫がなかった。
石川九楊の単行本「書字ノススメ」と二玄社刊の「誰も文字など書いてはいない」がおもしろかったので彼のほかの著書も読みたくなったわけだ。とくに「書字ノススメ」は書道への啓蒙書というわけではなく、ワープロやパソコンを使って文字を「書く」のではなく「打つ」ようになった日本社会へ警鐘であると読めた。「論客」というひさしく聞かぬ言葉を思い出す。
ぼくが石川九楊の言葉に共感するのは、ぼく自身このようにパソコンで文字を「打っている」わけだが、このような言葉に対する不信感がどこかにあるからだ。ネットで使われている言葉は軽いし、長い文章になると読みたくない。たとえば「青空文庫」でむかしの作家の作品が自由に読めるものの、それは文藝作品のデータ・ペースとしては評価するが、それを自分で読むかと問われれば読まない。読む気をおこさせない。あれで納得するひとがいるのだろうか?文章はやっぱり紙の上に印刷した活字でなければと、思ってしまう。その活字も石川九楊に言わせれば「代理文字」なのだそうな。
せめてひとに出す数少ないハガキや手紙くらいは、毛筆を使わなくても手書きにしようと、石川九楊を読んで感じた次第です。