2004年02月13日

イラン映画「行商人/ペドラー」

初日はモフセン・マフマルバフ監督の「行商人/ペドラー」三つの話から構成されるオムニバス作品。

第一話。スラム街に二階建バスの廃車に暮らす一家がいる。夫は仕事がないようで妻は身籠っている。夫婦の子供は2人いるが親近結婚が原因とかでいずれも障害児。新しい子どもが生まれるが養育するだけの経済力がない。それで夫婦は生まれた赤ん坊を捨てようとする。モスクに赤子を置いて帰ろうとするが失敗する。次に「赤ん坊が困らないように」と願い裕福な家に置いて帰ろうとするが、これも失敗する…。と、ストーリーを記すとよくある社会の貧困層を描いたイラン映画なのだが、夫婦が出かける病院に入院している障害児たちの描き方が異色で、むかしのトッド・ブラウニング監督の「フリークス」を連想してしまう。「フリークス」では障害者も心あるニンゲンでしたが、「行商人/ペドラー」ではモンスターの印象が拭いきれない。

マフマルバフ監督は社会派の映画(って何を言っているのか自分でもよくわからないのだが)を撮るひとだとばかり思っていたのが、そうじゃないと知らされたのが第2話。老母とその息子がいる。ふたりの生活は母親の年金が頼り。母は車椅子の生活で言葉も話せないようだ。息子は心のどこかには結婚して母親からひとり立ちしたい願望があるのだが現実には頭が弱くおまけに分裂気味だ。興奮するとアパートのベランダに出て太鼓を叩きラッパを吹く。なんか「ブリキの太鼓」のオスカルを思い出す。老婆と息子の設定はヒッチコックの「サイコ」を連想してしまう。ある日息子は母の年金を受け取りに銀行に行くが、その帰り道に交通事故に巻き込まれる。ここから後の描き方がきわめて観念的なのでした。

第3話は、衣料品を扱う行商人が殺人現場を目撃してしまい、一味に捕らえられる。捕らえられたクルマのなかで行商人は自分の死をあれこれと空想する。酒場に着いてボスの前でも撃たれて死ぬことを空想する。空想では自分は死ぬが現実に戻ればまだ生きている…。そんな時突然警察の手入れがある。行商人は酒場から逃げようとし、また自分の死を空想するが…。

「行商人/ペドラー」で監督はイランの貧困層を描こうとしたのではなく監督の念頭にあったのは「誕生」と「死」という抽象的なテーマだろうと思う。それは映画の最初と最後に映し出される「新生児」を見ればあきらかなのではないか。あのシーンではキューブリックの「2001年」を思い出してしまった。

Posted by fuqusuke at 2004年02月13日 23:31
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