梅雨明けだろうか。窓の外には日差しがある。梅雨入りは先月の10日頃だったから1月半以上も梅雨だったわけだ。梅雨の時期は気分が滅入るし、またこれから30℃を超える暑い日が続くのかと先を思い悩む。
スタイル・シートが理解できないので(HTMLも同じなのだが)タイトル・バナーを変更し、その下にリンクを張るという、たったこれだけの作業に数時間かかってしまった。
ほんと、ほかのMovable Typeを使っている皆さんは器用にやっているものです。感心させられます。デザイナーやプログラマーなどWebのつわものが揃っているためなのでしょうか。
しかし、Main Indexのバナーは変更できたものの、アーカイブのバナーが画像とテキストとが重なっている。これをどうにかしたいのだがテンプレートを見てもよくわからない。(T_T)
やはりMovable Typeは敷居が高いと思う。
石川九楊が「書」について書いている本を何冊か買った。
「書と文字は面白い」「書字ノススメ」この2冊は新潮文庫、「書とはどういう芸術か」中公新書、「書に通ず」新潮選書。「二重言語国家・日本」もほしかったのだが、こちらは書店に在庫がなかった。
石川九楊の単行本「書字ノススメ」と二玄社刊の「誰も文字など書いてはいない」がおもしろかったので彼のほかの著書も読みたくなったわけだ。とくに「書字ノススメ」は書道への啓蒙書というわけではなく、ワープロやパソコンを使って文字を「書く」のではなく「打つ」ようになった日本社会へ警鐘であると読めた。「論客」というひさしく聞かぬ言葉を思い出す。
ぼくが石川九楊の言葉に共感するのは、ぼく自身このようにパソコンで文字を「打っている」わけだが、このような言葉に対する不信感がどこかにあるからだ。ネットで使われている言葉は軽いし、長い文章になると読みたくない。たとえば「青空文庫」でむかしの作家の作品が自由に読めるものの、それは文藝作品のデータ・ペースとしては評価するが、それを自分で読むかと問われれば読まない。読む気をおこさせない。あれで納得するひとがいるのだろうか?文章はやっぱり紙の上に印刷した活字でなければと、思ってしまう。その活字も石川九楊に言わせれば「代理文字」なのだそうな。
せめてひとに出す数少ないハガキや手紙くらいは、毛筆を使わなくても手書きにしようと、石川九楊を読んで感じた次第です。
6月に「東北の湯治場 湯めぐりの旅」という本を紹介して以来、全然動かなくなっていたfuqusuke blog。リビルド・ボタンをクリックすると「リビルド中…」というメッセージが表れたまま、さっぱり動かなくなっていました。そんな状態がずっと続き、半ばあきらめていたのですが、昨日、何気なしに自分の文章にコメントを入れてみると、なんと動くではありませんか!
こりゃ、どうしたことでしょう?まるで錆付いていた歯車が何かの拍子に偶然動くようになったみたいです。
福助思うに、おそらくサイバー・スペースに隠れ住むロビン・グットフェローという名のいたずら好きな妖精が、その時の気分でウェブの歯車につっかえ棒をしたり、あるいは歯車に油を差したりしているに違いありません。
まあ、その妖精のおかげで、なんとひと月半ぶりでblogに書き込めるようになりました。うれしや。
しかし、復活したからと言って、先月初めて設定して4、5日使ったら動かなくなるfuqusuke blog。今後の予断を許しません。いつまたいたずら好きの妖精がワルサをするかわかりませんから。